大善院とはどんな人だったかの?
「大善院」とは法号 俗名は「きく」
大善院とはNHKの2026年大河ドラマ「豊臣兄弟!」の主人公・豊臣秀長(仲野太賀)の次女・きくのことです(きくの実母は不明)。
「豊浦毛利家譜」と「毛利家乗」によると、きくは1609(慶長14)年、21才(数え年で22才)のときに嫁ぎ先の長府毛利藩で亡くなった際に、京都の大徳寺で法名「大善院殿」として葬られたと記録されています。
このことから豊臣秀長の実子の娘のうちの1人は、一般的に「大善院」という名前で知られるようになりました。
「豊浦毛利家譜」の記録から逆算をして、俗名を「きく」とする大善院は生まれた年は1588(天正16)年であったことが分かります。
「大善院(豊臣秀長長女)」ではなく「大善院(豊臣秀長次女)」
一方、大河ドラマ「豊臣兄弟!」で時代考証を担当されている柴裕之さんの「豊臣秀長 シリーズ 織豊大名の研究」と、黒田基樹さんの「羽柴秀吉とその一族」では、豊臣秀長には「きく」とは別に、別妻(側室)の摂取院光秀との間にできた名前不明の女子がいることを指摘しています。
この女子は、豊臣秀長の最晩年である1591(天正19)年に秀長の養子・豊臣秀保と結婚することから、「秀長の妻」と呼ばれています。
さらに「秀長の妻」の生まれ年について、「羽柴秀吉とその一族」No.2990では1587(天正15)年、「豊臣秀長 シリーズ 織豊大名の研究」38ページでは1587年(天正15)年以前と説明しています。
つまり「きく」と「秀保の妻」の生年を比べると、「秀保の妻」が長女であって、「きく」こと大善院の方が次女であることが分かるでしょう。
なぜ大善院は豊臣秀長の長女と考えられたか
「大善院 = 豊臣秀長長女」説の出所
「秀保の妻」が長女であって、「きく」こと大善院の方が次女とするのは、インターネット上で流布されている、「大善院(豊臣秀長長女)」という通説と反します。なぜ「大善院は豊臣秀長の長女である」という情報が出回っているのでしょうか?
情報の出所はいくつか考えられますが、1つは1996(平成8)年に出版された「豊臣秀長のすべて」でしょう。「豊臣秀長のすべて」の220ページは豊臣秀長の子供たちを紹介していますが、「きく」と大善院は別人として紹介しています。
「豊臣秀長 シリーズ 織豊大名の研究」・「羽柴秀吉とその一族」、「豊臣秀長のすべて」のどちらも「きく」と大善院の関係について典拠を「駒井日記」としていますが、記述内容について解釈の違いがあるように見受けられます。
大河ドラマ「豊臣兄弟!」の大善院の扱いは?
3冊の本を読み比べてみると、「きくと大善院は同一人物でありかつ豊臣秀長の長女ではなく次女であった」という考え方の方が説得力があるように見えます。
2026年に放送されるNHK大河ドラマ「豊臣兄弟!」では、「きく」こと大善院や「秀保の妻」が登場するかどうかは、この記事を公開した時点(2025年6月23日)ではまだ分かりません。
しかし、もし彼女たちが登場するとすれば、ドラマの時代考証をされている柴裕之さんと黒田基樹さんが考えている、「大善院は豊臣秀長の次女である」という考証として話が展開するのではないかと考えられます。
大善院(豊臣秀長長女)に関する 参考文献
「大善院(豊臣秀長長女)」にまつわる今回の記事は以下の資料を参考にしています。
- 柴裕之編著「豊臣秀長 シリーズ 織豊大名の研究」戎光祥出版 (2024年)
- 黒田基樹「羽柴秀吉とその一族」角川選書(2025年)
「豊臣秀長」の柴裕之さんと、「羽柴秀吉とその一族」の黒田基樹さんは、大河ドラマ「豊臣兄弟!」の時代考証を担当されています。